真田丸への期待
真田家の家紋の一つ六文銭 |
事前に知っておくと面白い内容
そもそも真田家とは?
主人公である真田信繁(ここからは大河に合わせて信繁で通そう)は真田家の次男としてドラマに登場します。そもそも真田家とはどういった家なのでしょうか?Wikipediaによると…
江戸時代に作成された『真田家系図』[2]に拠れば、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは真田頼昌の子という真田幸隆[3]が小県郡真田郷を領して真田庄の松尾城に居住して以後、真田姓を名乗ったという。
…信濃国(長野県)東部の小豪族でしたが、系図がはっきりしているのは信繁の祖父、真田幸隆(彼も正式名称は幸綱(ユキツナ)が正しいらしいです。幸隆は出家してからの名乗りで読みは(コウリュウ)だったのではないかと言われ始めている)からだそうです。
真田家系譜略図 |
信繁の祖父真田幸綱(幸隆)とは?
Wikipedeliaより引用 |
その後関東管領上杉家は1546年に川越の戦いで関東の新興勢力北条家に敗れ急速に勢力が衰えます。一方海野平の戦いの後、武田家は当主信虎がクーデターにあい息子の晴信(後の武田信玄)に家督を奪われます。その直後の混乱で信濃国の佐久郡と小県郡の武田家の所領を諏訪・村上両家に奪われます。晴信はそれも あって婚姻関係にあった諏訪家を攻め、当主を自害に追い詰め傘下に収めます。その頼重の娘を側室にし子どもを産ませますが、その子が武田家最後の当主となる勝頼です。
さて、真田家の旧領は奪われたままなのですが、幸綱はその旧領を取り戻すべく勢力が衰える山内上杉家を去り、信濃国に制圧の野心に燃える武田晴信に仕えます。時期は諸説ありますが、村上義清と戦った上田原の戦い(1548年)には参戦していたと言われています。資料的には翌49年には確認できるとのこと。真偽は別として武田家への士官の仲介をしたのが、2007年の大河ドラマの主人公山本勘助で、2007年大河ドラマ風林火山では幸綱の流浪から武田家への士官、旧領奪回までのくだりがけっこう詳しく描かれていた気がします。
武田晴信は前述の村上義清との上田原の戦いに敗れ(家老クラスの重臣二人を失う敗北)、その後も村上家の要衝戸石城を攻めるもここでも敗北。しかし、翌年 1551年に幸綱の調略により戸石城を攻略。この戸石城攻略を契機に村上義清の力は衰え53年に本拠の葛尾城陥落後越後国(新潟県)に逃れます。この段階で幸綱は旧領を取り戻せました。幸綱は村上家との戦いで村上家側の豪族の調略(寝返り工作)を主に担当、戦いよりも事前の根回しで活躍したそうです。
村上家が逃れた越後国は当時長尾景虎(後の上杉謙信)が治めており、彼は村上家の旧領を取り戻すべく信濃国の武田領に攻めかかります。これがその後5回10 年に渡る武田家・長尾(上杉)家の死闘であるいわゆる川中島の戦いになります。幸綱は村上家から奪った戸石城も任されるとともに領地である真田郷に加えて 後に息子の昌幸が城を築くことになる上田ももらっているようです。有名な第四次川中島の戦いでは息子の信綱とともに妻女山攻撃の別働隊を率いたそうです。
武田信玄は第四次川中島の戦い後、同盟国で山内上杉家から名跡を譲られた上杉輝虎(以降謙信)の侵攻を受けていた北条氏康を支援すべく西上野に侵攻。吾妻郡 の要衝岩櫃城(1563年)と臼井城(1567年)は幸綱が攻略しています。これ以降幸綱は岩櫃城に在城し、吾妻郡の支配を担うようになっていきます。こういった待遇は武田家の中では一門衆や譜代の家臣以外だと西上野に勢力を持っていた小幡家と真田家くらいでその兵力は300騎とされます。これは小幡家の 500騎に次ぐもので、有力一門や譜代家臣に匹敵します。幸綱は信玄に特別に目をかけられていたと言えます。
幸綱は1567年に隠居し、家督を嫡男信綱に譲り信玄没後の1574年に亡くなっています。
マイナーだけど勇将信繁の叔父(昌幸の兄)信綱と昌輝とは?
真田信綱は1537年生まれ。幸綱の長男で武田二十四将に数えられる名将。父とともに第四次川中島の戦いから西上野攻略で活躍。家督相続後は弟の昌輝とともに武田家の駿河侵攻戦では先鋒を務め、北条家との三増峠の戦いでも殿で活躍。かの信玄の西上戦にも参陣しています。駿河攻めでは先鋒部隊として山県昌景、馬場信春、小山田信茂、小幡憲重、内藤昌豊とともに真田信綱・昌輝が名を連ねています二人とも将来を期待されていたが、1575年の長篠の戦いで戦死してしまいます。この戦いで信綱・昌輝は馬場信春とともに右翼を担い、三尺三寸(約1m)の陣太刀青江定次を振るい活躍。佐久間信盛が守る丸山を攻め落とすが兄弟共々戦死してしまいます。
真田昌輝は武田家の有力姉弟が任ぜられる百足衆に抜擢され「兵部は我が両眼なり」と言われていたそうです。百足衆は武田家の有名な伝令部隊で信玄の側近で剛 の者が選ばれたそうです。山県昌景、高坂昌信もこの百足衆だった時期があるとか。状況判断力に優れていた武将だったかもしれません。因みに後述の昌幸も 「我が両眼なり」と言われたとか。小説などの影響で昌幸がそう言われたと思われたと思っている人が多そうです。
この信綱と昌輝の活躍は漫画センゴク天正記の4巻と5巻で描かれています。
信繁の父、昌幸の前半生(1582年2月まで)
Wikipediaより引用 |
奥近習時代に昌幸は信玄から様々な薫陶を受けていたのと信玄も昌幸の眼力に信頼を置いており、昌幸を含む6人に家中の人々をつぶさに観察させ自分に報告するよう命じていたり、他国からやってきた浪人から士官の申請があった場合は昌幸と他二人(曽根昌世、三枝昌貞)がまず対応して信玄に印象を報告していたそうです。
第四次川中島の戦いで奥近習衆として初陣を果たした後、この永禄年間に武田信玄の母方の大井家の支族である武藤家を継ぎ武藤喜兵衛を名乗っています。地方豪族の人質から武田家の準親族として異例の出世を遂げ信玄の側近として彼を支えますが、1573年に信玄が死去、長篠の戦いで兄の信綱と昌輝が戦死すると武田家の当主武田勝頼から真田家を継ぐよう命じられます。真田家が担当していた西上野の吾妻郡を中心とした地域を守りながら勝頼が遠州方面に出陣した時はこれに帯同していたようです。
1578年上杉謙信が亡くなったことで上杉家で跡目争い(御館の乱)が起こります。
この跡目争いは謙信の養子である上杉景虎(北条家からの養子で北条氏康の子、氏政の弟)と上杉景勝(謙信の甥)の間で起こります。当初武田勝頼は北条家と婚姻関係にあった関係から上杉景虎を支援しますが、上杉景勝から「奥信濃、上野の領土の割譲、金2万両の引き渡し、勝頼の妹との婚姻」を条件に和睦。この間、景勝の攻撃を受けた景虎は滅亡してしまいます。結果、北条家との関係は険悪になり交戦状態になります。
勝頼は昌幸に北条家の領地になった上杉家の旧領である上野国利根郡(沼田領)を攻めさせます。1579年から始まった利根郡の侵攻は中心の城である沼田城と沼田城周辺の城への調略から始 まりました。翌80年の6月までに多くの沼田衆を武田型に寝返らせることに成功し、7月に沼田城を守る要衝である名胡桃城の鈴木重則を降伏させ沼田城を孤 立させます。沼田城を守っていた用土新左衛門尉(藤田信吉)と交渉し8月には沼田城も調略します。この調略が成功したのは用土の父と昌幸の父幸綱との縁によるといいます。沼田城が攻略出来たことを知った勝頼は上野国東部に進行し、膳城などを攻め落とします。さらに佐竹家など反北条の勢力とも結び北条家を追い詰めます。北条家の当主である北条氏政は「このままでは上野は勝頼のものになり、北条家は滅亡に追いつめられるかもしれない」と危機感をつのらせたといいます。それもあり、徳川家康・織田信長との連携を強め勝頼に対抗しようとします。
1581年に元沼田城の城主沼田景義が沼田城を奪還すべく攻め寄せてきますが、これを計略で打ち取っています。上野国吾妻郡・沼田郡を支配し北条家との戦いを進めようとしているさなか織田信長により武田領進攻を迎えます。
昌幸の1582年頃までの事跡についてはNHK真田丸公式ページも合わせてご覧ください。
1582年までの武田領と各国の状況について
1573年頃の武田(赤)、織田(青)、 徳川(緑)の勢力図 |
1572年に武田信玄が西上戦を行い、徳川家康と織田信長の援軍を三方ヶ原にて撃破、二俣 城、野田城、長篠城、岩村城など遠江国(静岡県西部)・三河国(愛知県東部)・美濃国(岐阜県)の徳川・織田方の多くの城を攻略するも信玄の病死のために退却。徳川方はその後に反撃し、長篠城を奪還します。信玄の死後武田家の当主(当主代理だが)になった勝頼はその長篠城を奪い返すために1575年に長篠城へ出陣、後詰(城への援軍)に来た徳川家康と織田信長の軍勢と設楽原で戦い大敗を喫します。この戦いで山県昌景、馬場信春、昌幸の兄である信綱、昌輝を始め多くの将兵を失います。
長篠の戦い(設楽原の戦い)後、徳川家康は三河の領土を回復させ、遠江も二俣城、諏訪原城を攻略、高天神城をめぐり激しく争います。
長篠合戦後の武田(赤)、織田(青)、 徳川(緑)の勢力図 |
また同じく1581年に新しい本拠地として躑躅ヶ崎館の西北の韮崎の地に城を築城(新府城)、これによりさらなる重税と賦役を強いたため領民と豪族とも勝頼への不満をつのらせていきます。そんな時に妹が嫁いでいた木曽谷の領主木曽義昌が突然織田方に寝返ります。
1582年頃の武田(赤)、織田(青)、 徳川(緑)の勢力図 |
当時織田信長は信玄の死後に浅井・朝倉家を滅ぼし、室町幕府を京都より追放。各地の一 向一揆も平定しその本山である石山本願寺とも1580年に和睦。敵は西の毛利家と東の上杉家、そして武田家に絞られていました。戦上手として名高かった勝頼の力が徐々に落ちていくのを見極めて、武田領の玄関口を守っていた木曽義昌が織田方に寝返ったのをきっかけに徳川家康と共同で5万を超える大軍勢を甲州に向かって進軍させます。
1582年当時の武田家の力
北条家との戦いは優勢でしたが、高天神城の失陥により内外への信頼度が低下していた武田家。それでも両国の石高は約118万石と徳川家の54万石の倍だが、織田家の約660万石に比べると力の差は歴然としていました。兵士数に直すと武田家が3万〜3万6千の兵力に対し、織田家は16万〜20万近くとなります。しかも、武田家は金山の枯渇と長年の出兵や築城による重税・賦役の増加により領土は疲弊していたそうです。しかも、家臣団の心は勝頼から離れ始め織田・徳川家からの調略手が家中に伸びていました…1582年当時の武田家中での昌幸の序列
真田丸では真田昌幸と他の家臣団とのやり取りも出てくると思いますので力関係をまとめました。主観ですが。まず真田昌幸は小県の本領と上州2郡を任されていたので家中ではかなりの力を持っていたはずです。但し、武田家の序列として一門衆→譜代衆(甲斐の国出身の武田家の家臣)→外様衆(信玄の外征後に降伏した甲斐の国以外に本貫地を持つ家臣・豪族)という序列なので譜代衆以上からは下に見られていた可能性はあります。それでも会社で言うと事業部長・執行役員クラスの立ち位置にいたのではないかと思います。軍役は推定200騎程度。
他の家臣で言うと…
一門衆から。ちなみに各人物を今の会社の役職に充てて評価してますがあくまでも私の主観で、取締役になるには一門衆である必要があるというルールでやってます。
穴山信君は信玄の姉を母に持ち駿河地域を治める立場。実質的に家臣団筆頭の立場だが勝頼との中は悪く、息子と勝頼の娘との縁談も途中で破談になっています。会社で言うと取締役専務か。軍役は200騎。
同じく専務クラスとして武田逍遥軒信綱。信玄の弟として伊那の要衝高遠城→大島城を守る。軍役は170騎。
重鎮として武田信豊。勝頼の従兄弟(信玄の弟信繁の息子)で武田家の副将的な立場だったと言われます。小諸城を守っていたそうですが佐久郡を掌握していたかは不明。軍役は200騎。この人は常務クラスかな。
一門衆で言うと高遠城で討ち死にした仁科盛信がいますが彼は上記の面々に比べると立場は低かったと思われます。軍役は100騎。
あと、信玄の娘を娶った木曽義昌も一門衆ですが、武田家の中では尊重はされていましたが、舵取りをする立場ではなかったと思います。軍役は100騎。
譜代衆だと小山田信茂。母親は信玄の父信虎の妹なので信玄とは従兄弟なので一応一門衆かもしれません。彼は川中島の戦いを始め各地の戦いで活躍した歴戦の強者だったので家中での発言力は高かったと思います。しかも郡内という土地も持っていました。軍役は250騎。取締役か執行役員筆頭?
跡部勝資も譜代では古参。信玄からの家臣で外交や領国支配で多くの文書が残っていることから官僚筆頭のような立場だったのではないかと思います。会社で言うと執行役員総務部長的。軍役は300騎と多め。
真田丸に出てきそうな武田家家臣を並べてみましたが、この中で昌幸は消して見劣りしないのと北条戦で活躍していたので発言権は強くなっていたものと思われます。
0 件のコメント:
コメントを投稿