2016年1月17日日曜日

裏切りは家名を残す手段ではあるけれども

真田信繁の親父である昌幸は武田家滅亡後、主君を織田、北条、徳川、上杉、豊臣と替えて生き残った読みと駆け引きのしたたかさを併せ持ち、豊臣秀吉から「表裏比興者」と評されました。今の社会に置き換えると嫌われそうな経歴ですが、当時の常識として家を残すことが第一なわけですから彼の行為というのはむしろ評価されていました。それ故に秀吉の部下であり現代では義理堅く清廉なイメージを持つ石田三成も彼と縁を結んでいます。 

真田丸では初回からたくさんの家臣が武田を裏切っています。裏切りは自分の家を残す手段の一つで一方的に責められるわけではありません。…が現代と同じように褒められた行為ではなく、裏切り方を間違えると本人もしくはその子孫の末路が悲惨です。逆に主君を忠義を尽くすというのは「7回主君を変えて一人前」(実際そこまで主君を変えている人は当時でも稀だが)と言われた当時からすると変人の生き様ですが、その生き様が評価され江戸時代に大名として存続している家もあります。前置き長くなりましたが、家の存続をテーマに、どうすれば家を後世まで残せるか実例を元に考えていきたいと思います。

武田家を裏切った三悪人といえば、木曾義昌、穴山信君、小山田信茂の3人です。彼らは斜陽の武田家を裏切って家を残そうとしたわけですが、結果的にはうまくいきませんでした。

木曾義昌の場合

木曾家は祖先を旭将軍木曾義仲とする木曽谷の豪族です。義昌の父義康の代に武田信玄と戦い従属。義昌は信玄の娘(勝頼の妹)を娶り武田家の親族として木曽谷を守りました。信玄存命の時は木曽谷は安泰の日々が続きましたが、勝頼の代になり長篠で織田・徳川連合軍に大敗すると木曽谷の平和にも陰りが見えてきます。長篠の敗戦後、対織田家の最前線は美濃国岩村城でした。ここを織田家の大軍が攻めます。勝頼は長篠の敗戦の直後もあって後詰(味方の城に対しての援軍)をしにくい状態でした。そのため親族で義理の弟である木曾義昌岩村城を救援するように指令しますが、義昌はこれを拒否。関係はこれを期に徐々に冷却していきます。
1581年に遠江の武田方の拠点であった高天神城が徳川家の攻撃で落城。ここは武田信玄が落とせなかった城であったが1574年勝頼が攻略。勝頼の武名を轟かせた城でしたが、長篠の合戦後の6年にも及ぶ戦いで最後は武田方が後詰できず落城。城兵の9割近くが玉砕的な戦死を遂げました。この高天神城を見殺しにしたことで義昌も勝頼の姿勢に不安を感じます。また同時期に行っていた新府城の築城で木曾家に重い賦役が課せられますがこれに不満を持ちます。この辺りから密かに隣国織田方の美濃国苗木城主(中津川)遠山友忠を通じて織田家に内通。1582年1月に織田家に寝返ります。親族の木曾家が裏切ったことを知った勝頼は激怒。人質にとっていた義昌の70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫を処刑にします。かつ武田家は木曽谷に討伐軍を送りますが、織田家の援軍を得た木曾軍は鳥居峠で武田軍を撃破。国境を難なく織田家に突破された武田家は裏切りが続出し、この2ヶ月後に甲斐国田野で滅びます。
織田家による武田征伐に殊勲賞となった木曾義昌は褒美として木曾郡の安堵と筑摩郡が与えられます。この時が彼の絶頂だったかもしれません。しかし、本能寺の変が起こり甲信は混乱。森長可と滝川一益は自領に引き返そうとするも義昌はその帰国を妨害する、筑摩郡の領地は元々の領主である小笠原家に奪回される。その後、徳川家康に臣従するも小牧・長久手の戦い後に秀吉に寝返る。この後徳川軍の侵攻を受けるがこれを撃退している。この件で家康は義昌のことを快く思わなくなったらしいです。北条家が滅亡後に木曾家は徳川家に組み入れられ下総国阿知戸に移封されます。これに義昌は精神的・財政的に逼迫し1595年に失意のうちに死去します。ただ、この地域を干拓し8万石の土地を作り上げたので名君であったとも言われています。木曾家は長男義利が継ぎますが5年後の1600年に叔父を殺害するなど粗暴なふるまいがあり改易されます。
義昌の場合、彼の事情的に家名を残すためには裏切りはやむをえなかったと思います。しかし、本能寺の変後のふるまいが良くなく、結果的に家康への印象が悪くしその悪い印象が死後の家名断絶に繋がったのではないかと思います。裏切り後の行為が良くないと裏切り自体に大義名分があったとしても後の印象も悪くなってしまうという例ではないでしょうか。

穴山信君の場合

穴山家は甲斐国の河内に所領を持ち、独立した家臣団と行政機能を持っていた豪族でした。代々武田家と婚姻関係にあり親族意識が高かったようです。武田性を許される御一門衆でもあり、信君自身は母が信玄の姉、妻が信玄の娘で勝頼の姉でした。信玄の後を継いだ勝頼は信玄の側室の娘で母の実家である諏訪家を継いでいた(しかも後を継いだと言っても陣代という当主代理)こともあり複雑な感情を持って接していたとも言われています。
梅雪斎不白は武田信玄に従軍し、川中島の戦いや河内領に隣接している駿河侵攻に参戦しています。この駿河侵攻前に起こった信玄の嫡男義信の謀叛の際には弟信邦が自害しており、武田家の内訌に穴山家も巻き込まれていたと言われています。この事件と親族意識が信君の勝頼に対して批判的な意識を生んでいたとも言われています。
さて、信玄が亡くなり、勝頼が後を継いだ2年後にかの長篠の戦いが起こります。この戦いでこともあろうに信君は大将の勝頼を置いて早々に退却します。これはにより武田軍の戦線崩壊を招いたため武田軍は惨敗を喫しますが、重臣で生き残っていた高坂昌信(春日虎繁)から「信君を切腹させるべき」と諫言を受けます。長篠の敗戦の直後で多くの重臣が亡くなった後でかつ御一門衆筆頭でもある信君を自害させることはできず、逆に長篠で亡くなった山県昌景の後釜として駿河国江尻城を任され駿河・遠江方面を守る立場になります。
当主であった勝頼との関係は微妙なものでしたが、これを冷却させる起因になったのは勝頼の娘と信君の長男との婚姻が破棄されたためと言われています。前述の通り、信君の父から正室は武田家からもらっておりその婚姻関係と所領から武田家御一門衆筆頭としての立場で遇されていましたが、これを反故にされたことで立場は微妙なものになり織田・徳川の攻勢に劣勢になっていたこともあり徐々に武田家から心が離れていきます。
信君の裏切りにより武田家の劣勢は決定的なものになりますが、その裏切りは秘密裏に入念に行われていたようです。時期的には不明ですが、高天神城が落城した1581年3月以降からでは無いかと思われます。徳川方の長坂信宅(血鑓九郎)が調略を担当し、甲斐国一国と武田家の名跡を継承を条件に裏切りを決意。織田軍が甲斐に侵攻開始し軍勢が武田軍の要とも言える高遠城に向かっている時に、信君は武田家に人質に出していた妻と嫡男を救出し寝返りを宣言。思いもよらぬ御一門衆筆頭の信君の裏切りは劣勢の武田軍に激震崩壊へ転げ落ちます。武田軍の駿河方面軍は一気に崩壊し、勝頼は諏訪上原城に進めていた軍勢を急遽新府城に返します(ここは真田丸の記述と違う。おそらく信君は織田勢が侵攻してきた時に同時侵攻してきた徳川と戦うという名目で駿河にとどまっていたはず)。この信君の裏切りにより武田軍は一気に離散し、家臣が残り40余人となった勝頼は田野において自害しました。
戦後の織田家の元で甲斐国河内領と駿河国の江尻領を安堵され徳川家の与力に組み込まれますが、家康と信長への挨拶に安土に登った後の堺観光中に起こった本能寺の変で運命が一変。家康とは別ルートで帰国しようとしますが、宇治田原において一気に襲われ殺害されます。穴山家(武田家)は嫡子勝千代が後を継ぎますが1587年に死去。その名跡は家康の息子である信吉が継ぎますが、彼も1603年に死去。子供がいなかったために家は完全に断絶します。
血の濃い肉親同士ゆえの確執と鮮やかな裏切りのため、後世に悪名を残したと言えます。彼の哀れな末路とそれ以降血が繋がらなかったのは武田を裏切った祟りのようにも見えます。自分の欲よりも大きい大義名分を残し裏切り後も清廉な仕事が出来ていれば彼の評価もまた違ったかもしれません。

小山田信茂の場合

小山田家は、甲斐国郡内に所領を持つ豪族。祖母が武田信虎の妹ですので縁戚でもあります。父は武田家に従い信濃を転戦、砥石城の戦いで負傷しそれが元で亡くなっています。信茂は武田二十四将に数えられる名将で特に信玄の駿河攻めあたりからその名が見え始めます。翌年の北条攻めでは単独で北条軍を打ち破り、三方ヶ原の戦いでは先陣を務め「投石隊」を率いて家康を誘き寄せたとも伝わります。武田家の名将山県昌景には「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評価されています。
信玄の死後も勝頼を支え、長篠の戦いでは善戦し多くの死傷者を出しています。また、外交面でも北条家や御館の乱の時の
上杉景虎・景勝との折衝も担当しているようです。
木曾家裏切りに伴う織田家の侵攻に対し、信茂は当初勝頼とともに諏訪上原城まで進軍しますが、穴山信君の裏切りにより新府城に退却。真田昌幸が自身の居城である岩櫃城への退避を提案したのに対し、勝頼の重臣跡部勝資や信茂は郡内岩殿城への退避を提案。ちなみに岩櫃城も岩殿城も駿河国久能城とともに山城として名高く、岩殿城に至っては江戸時代も防衛拠点として利用され、明治時代にはかの乃木希典将軍が視察に来ているほどです。勝頼は同じ甲斐国の堅城岩殿城への退避を決めます。新府城を焼き、武田家の一行は郡内に向かいます。途中信茂は勝頼を迎えるために先に郡内に戻ります。この時点で勝頼は信茂を全く疑っていません。しかし、笹子峠の手前鶴瀬の地に逗留中に一緒にいた信茂の人質がいなくなり、かつ郡内の入り口である笹子峠が小山田勢に閉鎖されたことをしり、小山田信茂の裏切りが発覚します。行き場を失った勝頼はかつて先祖が天目山の手前田野の地で織田勢に捕捉され自害に追い込まれます。戦後信茂は嫡男とともに織田信忠の元へ出頭しますが、古今未曾有の不忠者として一族もろとも成敗され小山田家も滅亡してしまします。
この信茂の裏切りで武田家は完全に息の根を止められるわけですが、木曾や穴山の裏切りと違い事前に織田家に連絡を取った上での裏切りではなかったのではないかと思われます。朝倉家も当主義景が最後の土壇場で御一門衆筆頭の朝倉景鏡に裏切られ滅亡しましたがこの時は事前に羽柴秀吉を通じて内通しており戦後所領を安堵されました。信茂の裏切りは織田家に事前の連絡もない裏切りであったため印象も悪く一族もろとも惨殺といった結果になったと思われます。結果論でありますが、名将として名高かった信茂が最後戦っていたら後世の評価も高く子孫も残っていたかもしれません。家を残すのは難しいです。

真田昌幸の生き残りのための駆け引き

真田昌幸は、武田家に最後まで仕えましたが結果的にうまく生き残っています。1582年2月28日穴山信君の裏切りで新府城へ退却するとき、昌幸も勝頼や小山田信茂とともに従っています。3月2日の軍議では自身の居城で堅城として知られる岩櫃城への退去を勝頼に提案しています。勝頼は一旦はそれを受け入れ昌幸は準備のために岩櫃城へ行きますが、その後勝頼は岩殿城への行き先を変更。その段階で昌幸の人質を解放しています。勝頼はその後3月11日に田野で滅亡しますが、滅亡の少し前から北条家の上野方面の司令官である氏邦と氏邦配下の長尾憲景を通じてやりとりをしており、勝頼自害の翌日付け(3月12日)改めて氏邦から服属するよう手紙をもらっています。その前後に信州に侵入する織田勢に備えて小県の自領に軍勢を率いて戻っていますが、その時昌幸は上杉家と北条家に従属を前提に援軍を要請する使者を送っているようです。しかもわざと織田家に捕まるように。勝頼を滅ぼし、甲信を平定した気でいた信長の嫡男信忠はこれに驚き「籠城をするのも結構だが、織田方に属して先手を勤めるように」と書状を送っています。これを受けて3月18日に高遠城に来ていた信長に謁見し臣従を果たしています。3月末に旧武田領の所領割を行い、昌幸は上野国の吾妻・沼田領は没収になっていますが、信濃国の小県の本領は安堵されています。4月3日に甲府に入った信長は武田の親族や旧臣を成敗していますが、8日に信長に黒葦毛の馬を送っており信長から令状を受け取っています。さらに自身の娘を人質として安土に送っています。ちなみに武田旧臣で御一門衆や譜代の家臣の多くは信長に殺害されていますが、信濃や上野、駿河の国衆の多くはそのまま許されています。但し、織田・徳川を裏切った武将は捕らえられて処刑されています。
信長という人物はいろいろ言われますが、メンタリティとして武士と商人が混ざっており、ものごとを利益と信用で見ているようです。裏切り者は好まず(有能な人物は例外。自身からも相手を裏切ることはあまり無かった。但し、長島や岩村城で投降した敵をだまし討ちにしたことはある)、武士らしく最後まで抵抗する武将を好ましくも思っていたようです。昌幸は有能で名も知られていますし、主家に殉じて戦おうとした姿勢も好ましいと思ったでしょうし、武田が滅んだ後の抵抗は織田家にとっても無駄な損害のように思えたので投降を勧めたのでしょうか。何れにしても昌幸の運の良さと相手を見た手際良い処世術は学ぶべきところがあるところが大いにあると思います。この武田家滅亡直後の昌幸の生き残り駆け引きが真田丸本編でどう描かれるか楽しみです。

おまけ。自身は討ち死にしていますが、家名は存続しているケース

土屋正恒という武将がいます。彼は金丸家の出身ですが、土屋家の養子に出ていた兄昌続が長篠で戦死したために兄の跡を継ぎ土屋家を相続し、勝頼に従い各地を転戦。1582年の武田家は滅亡時にも最後まで勝頼に付き従い「片手千人斬り」と呼ばれるほど奮戦するが討ち死にします。この忠直はまだ幼く母に連れられて実家がある駿河に脱出。その後に家康に召し出され嫡男秀忠の小姓となり、1602年には上総国久留里藩主として2万石を領する大名になり、その血脈は大名として明治維新まで続きます。本人の有能さもあったでしょうが、父の忠義が評価されて家名が残った例です。










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